津波の高さは何mで危険だと思うのか

あの3.11からもう3年。当時のオフィスは地名からして地盤の悪そうな赤坂「溜池」のビルにあり、今まで体験したことのない長時間の揺れに「遂に東海東南海地震が来たか!」と早合点しながら、次々と本棚から落下する書籍を呆然と見上げていたのを思い出す。

5月の連休には物見遊三を非難する報道が繰り広げられる中でも、「絶対目に焼き付けておかなければ」と、YAMAHA XJ600をレンタルして東北自動車道を北上。仙台から仙台東部道路を経て国道45号線石巻へと、津波でゴーストタウン化した街や一面にがれきの散らばる田んぼを見つめながら、ひたすらバイクを走らせていた。東松島を過ぎ、45号線が沿岸部から内陸へと進路を変える交差点。そろそろここ迄かと思いつつ直感的に「何かおかしい」と感じたため、さらに沿岸沿いを走る道へと進路を変更。日本製紙の裏手を過ぎたところで目に飛び込んできたのは、それまでの殺伐としつつもどこか穏やかさを感じる風景から一変して、道の両脇を背丈以上のがれきの壁が延々と続く、完全な死の世界だった。原形を留める建物は、遠くに見える赤十字病院と、反対の山側に建つ立派な屋根構えの稲法寺くらいか。所々に積み上げられたぺしゃんこの自動車の山には「捜索済」の紙が貼付けられている。きっと、この中で見つかった方々も数多くいたのだろう。据えた臭いが立ちこめる中で、街全体が巨大な墓場と化してしまったことに打ちのめされ、復旧活動を始めようとする自衛隊員の朝礼を横目で見つつ被災地域を後にした。
塩竈付近の国道沿いは、道の両側の店鋪のガラス窓に膝丈くらいの筋がくっきりと残り、津波の高さが一目で分かる。ガラス窓が残っているくらいだから、きっと多くの人が生き延びられたのだろう。そんな思いが、石巻手前までの「穏やかさ」の感覚に繋がっていたのかもしれない。

実際には50cmの高さでも人は流されてしまうにも関わらず、何10mという津波の脅威を目の当たりにした我々は、ともすると「1mくらいの津波なら大丈夫」と思うようになってしまっていないだろうか。そんな危険な思い込みを大規模なネット調査で明らかにしたのが、元東大地震研で現在は慶應大学准教授の大木聖子先生である。もともとは地震波を使って地球の内部構造の研究をされていた大木先生は、途中から防災コミュニケーションの研究にも取り組むようになり、2010年には全国を対象に大規模な津波に対する意識調査を行っていた。「どのくらいの高さの津波から危険だと思いますか。」という問いに、震災1年前の時点では約70%の人が1m程度以下で津波は危険と認識していた。ところが震災1ヶ月後に同じ調査を行ったところ、1m程度以下と答えた割合が45%と逆に減少したのである。大木先生はこの結果にショックを受けたものの、共同研究していた心理学者の同志社大中谷内一也教授は予想通りの結果だという。

これが、マーケティングではよく知られている「アンカリング効果」だ。提示された特定の数値や情報が印象に残って基準点(アンカー)となり、判断に影響を及ぼす心理効果のことである。例えば道の駅で「誰がこんなもの買うんだ。」と思わせる1個10万円の高額な土産物が飾ってある場合がある。しかし、その価格がアンカーとなり、相対的に安い1個1000円の土産物がコストパフォーマンス良く感じられ、結果として高額な土産物がない場合よりも売上が伸びることになる。

お土産なら後で冷静になって「なぜこんなガラクタ買ったんだ」と思っても、それもまた一つの思い出になるかもしれない。しかし、津波の場合には東日本大震災を知ったが故に、逆に避難しなくなってしまうという致命的なジレンマを生み出すことになる。情報を提供すればするほど、間違った判断に繋がってしまうというパラドックスをどうしたらよいのか。その答えの一つとして、現在の災害情報の提供時に合わせてリテラシーを向上させる基準情報もセットで提供すると良いとのこと。例えば「1mでも木造家屋が破壊される津波ですが、今回は10mもの津波が到達する恐れがあります。」と言えば、単に「10mの津波が到達する恐れがあります。」というよりも、より正しい危険性を認識してくれるだろう。あるいは集中豪雨でも、単に降水量をいうよりは、「あの渋谷のスクランブル交差点で車が浮いていた○○年の集中豪雨に匹敵する」などと基準となる情報を付加すれば、差し迫る災害の危険性がよりリアルに感じられるだろう。

しかし災害という非常時に端的な表現で基準情報を提供できるのは、その基準情報が事前にある程度情報として共有できている場合だけではないか。一般の人々が誰もイメージできない情報では、基準の役目を果たすことができない。その点で、現代の我々がなかなかイメージできる基準情報を持ち得ていない破局噴火が訪れたときには、やはりまた「想定外」の報道が繰り返されるしかないのだろうか。